御館の乱と丹後平定
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作成日時 : 2009/03/14 15:57
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【写真】昭和15年に復興された田辺城 彰古館(中央奥)と平成4年に築かれた城門(左)と百鬼丸
時代背景がわかりやすいので大河ドラマ「天地人」とダブらせてみる。
上杉謙信が死去したのが天正6年(1578年)3月13日。
その頃、織田信長は明智光秀と細川幽斎(当事:藤孝)に丹波・丹後攻めを命じている。
謙信の死後、すぐに二人の養子上杉景勝方と上杉景虎方に分かれ、御館の乱が勃発。
一方丹後攻めの総大将細川藤孝は、建部山城主一色義通(守護大名)を滅ぼして丹後を平定。信長から丹後一国12万石を与えられ丹後の中心に位置する宮津に城を築いた。
上杉景勝方が勝利し越後を二分した動乱が終息したのが天正9年2月。
同年、細川藤孝は京への交通の拠点となる加佐郡田辺に城を築くなど丹後領内を次々と整備している。
謙信は6万の兵をもって関東を平定し、そして信長を討つべく京に向かう予定だったという
なのに出陣直前に倒れその4日後に帰らぬ人に・・・
御館の乱と丹後平定
遠く離れたところであった出来事が何かしらの影響を受けて歴史が築かれ今がある。
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